日野のセダン!

日本の産業の発展と世界を目指した日野コンテッサ

(1995年JCCAニューイヤーミーティングにて配布)

昭和7年製「 ちよだ」O型試作軍用型乗用車

 日野自動車のセダンの歴史は思いのほか古い。時代は大正の初期、東京瓦斯電気工業(株)(日野の前身)は自動車造りのために当時、欧米に航空機技術と自動車技術を学んだパイオニア、星子 勇を迎えた。星子の夢は大衆向けの自動車を造ることで日本を工業立国にすることだった。この星子のもとガス電は1932(昭和7)年に陸軍向け向けではあるが乗用車の製作を開始。その後、一連の「ちよだ」シリーズを出したものの第二次世界大戦に突入、終戦。その時、星子はすでに他界していた。

 戦後の復興期の昭和27〜8年、日産、いすゞ、日野各社は乗用車先進国のメーカーと手を組んだのだった。日野の選択はフランスのルノー4CV。その理由は簡単に造れて、経済的に良く走る、そして家族4人が乗れる、と言ったフランスの合理主義そのもので星子の夢を実現するに十分なものだった。

その後、ルノー4CVで学んだ技術をお手本に造ったのが初代伯爵婦人ことコンテッサ900で1961(昭和36)年に世に出すに至ったのだ。当時の国産乗用車は経済急成長&生活レベル向上に沿ってハイレベル化の真っただ中、コンテッサも例外でなかった。日野も更に独自技術を盛り込み、斬新的なミケロッティのトレネーゼスタイルで1964(昭和39)年に登場させたのがコンテッサ1300であった。

しかし乗用車自由化政策の波にもまれた1967(昭和42)年に日野の乗用車の歴史は星子の意思をついだ夢が現実のものとして咲くことなく閉じることとなった。この間世に出て行った日野の乗用車はルノー4CVが34,852台、コンテッサ900は47,299台、コンテッサ1300は55,027台を数え、その内約20,000台もが世界へとはばたいて行った。

 現在、日本に現存する日野ルノー/コンテッサは約400台。バブル崩壊後の空洞化が議論される日本の産業であるが工業立国の生き証人でもあるこれらコンテッサたちから先人が残したくれたもの造り重要性を再認識したい。

(文責 江澤 智)